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河井継之助記念館

利用案内

開館期間 4月下旬~11月中旬まで
開館時間 午前10時~午後4時00分まで
休館日 毎週木曜日
入館料 大人 :300円
小・中学生:150円
※団体割引20名以上
駐車場 国道沿い 20台(大型2台)

河井継之助は名を秋義と云い、蒼竜窟と号した。

越後長岡藩に生まれ、幼少の頃より聡明にして豪胆神童と云われた河井継之助は、文武に秀で、陽明学を修め水練、馬術、槍術に長じ特に砲術の研究を深めた。
二十七才の時江戸に学び"斎藤拙堂" "古賀茶溪"に師事すると共に"福地源一郎"らとの交流を深め、佐久間象山の門をたたくなど勉学に励んだ。
その後一時帰国して藩政に参与するが、安政五年ふたたび江戸に赴き、さらに備中松山の"山田方谷"の教えを受け、横浜、長崎等に遊学して広く世界の動きを見聞した。
文久二年(1862)八月、"藩主牧野忠恭"が京都所司代および幕府老中となったときには、内外の情勢を説いて献言したが入れられなかった。
慶応元年(1865)三十九才の時、郡奉行となりその非凡な才能は多くの人の注目を集めた。その後、御番頭、町奉行、御年寄役を歴任し同四年には家老上席となり政務を担当した。
継之助は、この間大いに藩政を改革し、藩財政を確立すると共に兵制を改革するなど、長岡藩をして奥羽の雄藩としての基礎をつくりあげた。

八十里腰抜け武士の越す峠

慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、関東、東北、越後に拡大されていった。
朝敵の汚名を受けた会津藩とその同盟軍は苦しい戦いを余儀なくされた。
継之助は、事を平和に解決しようと東奔西走し、小千谷にかまえた西軍の軍監"岩村精一郎"と慈眼寺において談判したが決裂。ここにおいて長岡藩は参戦に踏み切り、更に奥羽越の諸藩同盟を結成、その総督として善戦したが5月長岡藩が落ちる。その後7月25日の戦いで、河井継之助は負傷する。
継之助は親藩会津に逃れ再起をはかるため、千数百名と共に八十里越を会津に向かった。山越えは難渋を極め、山中に一泊したのち8月5日只見に着き傷の手当てを受ける。
8月12日幕府医師、"松本良順"のすすめで会津若松に向けて出発、途中塩沢、"矢沢宗 益宅"に投宿した。
継之助はすでに死期を予感し、従者松蔵に死期の準備を命じ、その夜静かな眠りに入った。時に慶応4年(1868)8月16日であった。

河井継之助年譜

文政10
(1827)
1月長岡城下に誕生。
天保13
(1842)
16歳にて元服。
嘉永6
(1853)
江戸遊学、斎藤拙堂、古賀茶渓に学ぶ。
安政元
(1854)
新知30石にて御目付格、評定方となる。
安政4
(1857)
家督相続。
安政5
(1858)
12月長岡発江戸に向かう。
安政6
(1859)
1月久敬入塾(6月退塾、西遊)
7月備中松山の山田方谷の門下となる。
10月長崎遊学。
万延元
(1860)
夏帰郷する。
文久2
(1862)
8月藩主牧野忠恭京都所司代になったとき献言書を提出する。
元治元
(1864)
御用人勤向公用人兼帯となり江戸詰となる。
慶応元
(1865)
10月郡奉行となる。
慶応2
(1866)
11月御番頭格兼町奉行となる。
慶応3
(1867)
10月徳川慶喜大政を奉還する。王政復古の大号令が降る。
10月御年寄役。
12月藩主忠訓公に供奉し大阪に登る。
帯阪中上京し忠訓公の献言書を朝に呈す。
この前後大阪城に登り閣老に拝謁し数回に亘り献言する。
慶応4
(1868)
正月藩主に供奉して江戸、2月長岡に還る。
4月長岡藩家老に任じられる
4月江戸城開城
長岡藩軍事総督となる。
5月2日西軍軍監岩村と小千谷談判。この決裂で藩論を統一し参戦を決議。
榎峠の戦い、朝日山合戦。
15日奥羽越同盟成立連合軍総督となる。
19日長岡城落城。藩主一行八十里越経由会津に逃る。
7月24日奇襲攻撃により長岡城を奪回する。
25日新町口の戦いで銃弾を受ける。
29日長岡城再び落ち栃尾に脱す。
8月2日栃尾を発ち吉ヶ平、八十里峠を越え5日只見に到着。五十嵐清吉宅(只見)にて傷の加療。
12日会津若松に向け出発。夕刻塩沢村到着、医師矢沢宗益方に投宿。そのまま逗留し、傷が悪化して16日夕8時頃死去。享年42歳。

詳しくは、(株)会津ただみ振興公社ホームページをご覧ください。